【変化の時代の人と組織のツナガリを考察するシリーズ】第1回 エンゲージメントの見取り図

2020年11月4日

リーダーシップの視点でエンゲージメントを紐解いた『変化の時代の人と組織の繋がりを考察する~リーダーのためのエンゲージメント』シリーズを【全8回】でお送りします。

「エンゲージメント」という言葉と概念が、特に企業や団体のような「組織体」にとって、今や非常に大切なものになりつつあることは、読者のみなさんもご存じでしょう。

エンゲージメントという概念そのものには実は長い歴史があります(その点は後述します)。が、どうやら学問的に本格的研究がなされるより先に実業界で重要性が叫ばれるようになったらしく、たとえば「動機付け」や「セルフ・エフィカシー」「フロー」などのように、アカデミックな研究から実社会に応用されるようになったコンセプト(現在、私たちがビジネスで使う心理学や組織学の概念は、ほとんどがそうです)と比べると、ちょっと変わった経緯をたどって普及したものと言えます。

もちろん現在は学界でも研究が進められ、多くの専門書が出版されていますから、そうした成果を応用するのも容易になりましたが、ここでは、多少違った視点で考えてみたいと思います。

エンゲージメントを「アンガージュマン」との関係で考える

まずはエンゲージメントの語源、というより歴史を考えます。

英語のEngagementという単語の直接の語源はフランス語で、「アンガージュマン」と発音します。

この言葉は、1960年代のフランス実存主義、特にその旗手だったJean-Paul Sartre(ジャン=ポール・サルトル)という高名な哲学者にとって、大変重要な意味を持ちました。社会運動への「参加」や「連帯」を指し示す言葉だったのです。

ここで注目したいのは「(社会)参加」と訳されるのは確かではあるものの、実存主義にとって「アンガージュマン」にはさらなる含意があったことで、それは「自己拘束」とでも言うべきものです。

どういうことでしょう? 拙いまとめ方をしますと、次のようになります。

SNSで社会的な発言をされている方は感じておられるかもしれませんが、何らかの運動に参加したり、社会的に何かを主張したりすることは、自分を何らかの意見や見方に縛り付けることになります。朝三暮四が許されるならともかく、これは自己を拘束することにつながります。サルトル氏は、そうした事態を人は引き受けるべきだ、と説いたのです。

彼の主張を大まかにまとめると、人は物理的制約や生まれ持っての特質を除けば自由な存在であるべきだが、その自由に制約を加えても、自分が「こうだ」と考えたら、社会的に発言したり運動に参加したりすべきだ、という、当時のフランスの政治情勢も踏まえた上での発言だったのです[1]。要するに「自分のWillから発する自己拘束」です。

ここまで読まれた方は「この話はどこにつながるんだ?」と思われるかもしれません。ところが意外なほど、現在のエンゲージメントのコンセプトは、こうした歴史的背景を背負っているように見えます。今回の記事は、その点を検討することから始めたいと思います。

組織に入って仕事に就くことーエンゲージメントの前提としての意思決定

すべての「働く人」は職業選択を避けることができません。

特にこの記事の読者の多くが、企業や団体のような「組織」を自分の価値観に基づいて選び、そこに属しているでしょう。ここで重要なのは、組織のメンバーが「時間と労働を提供する対価として、賃金や福利厚生のサービスを受けている」という点です。

働くことは、自分の判断や意志で自己を何らかの形で「拘束」することでもあるのです。もちろん職業/組織の選択肢にどれだけの自由度や幅があるか、それは人によって違いますし、「否応なし」という方もおられるでしょう。ですが、「ここで仕事をするゾ」と決めた時点で、Willの程度の差こそあれ、「自分をこの仕事や組織に拘束しても良い」と判断したのは確かでしょう。

ここまでお読みになると、最初のアンガージュマンを巡る議論がつながることに、多くの方が気づかれるはずです。

エンゲージメントは働く人の意思決定から始まる

さて、なぜ私たちはなぜengagementの歴史まで遡ったのでしょう。それは「エンゲージメント」がしばしば職場満足度や動機付けのような、他の理論との区別がなされず、ゴッチャになりやすいからです。重なる部分が多いものの、それではなぜ今、エンゲージメント概念が重要視されるようになったのか、説明がつかないでしょう。

特に欧米の組織論の専門家がエンゲージメントと言う時、実は欧米文化特有の「契約思考」が根底にあり、その組織と労働契約を結ぶことにより、同時に自分を拘束すること(つまりエンゲージすること)に同意するというイメージがあります。

拘束は、時間的・物理的なそれだけではありません。

たとえば、私たちは「◯◯社の社員」といったラベルを積極的に受け入れることで、その会社の価値観をも引き受けたことになります。言い換えると、「ある組織の正社員として働くこと」は、社会的に「私と自社の価値観は一致しています」という発言をしていると言えるのです。したがって一定の留保はありながらも、価値観について「自己拘束をしている」ことになると言っても良いでしょう。

この「自分を何かに縛り付ける」という「決断をする」という側面が、エンゲージメントを考える際の出発点になるのです。そのことはエンゲージメントの他の意味、たとえば「婚約」を考えれば明らかでしょう。

エンゲージメントは「ツナガリ」につながることでもある

ところで、「拘束する」というとマイナス・イメージがありますが、先ほどの「婚約」の場合を考えればわかるように、何かに自分を委ね自らの自由を制約することが、いつもマイナスになるとは限りません。

それどころか、自分が良いと思うものに自分を当てはめ自由を制約することが、その人に幸福感を与えることもあります。たとえば、その人が気に入った人たちの集まりに参加したり、「これは価値がある」という運動に参加したりする場合です。先ほど述べた社会運動への参加も、それが本人の真の意思に基づくものならば、後者に当てはまるでしょう。

なぜなら、ここで言う「拘束」とは、自分を何かにつなげることだからです。組織論の文脈で言えば、仕事や組織の人々や文化・制度とのツナガリを作ることです。このことは、エンゲージメントの「婚約」の意味を考えれば明らかでしょう。そのツナガリが自分にとって良きものなら、それはハッピーな「拘束」ともなるわけです。社会運動も同様ですね。

ここまでの話をまとめましょう。ただし、大枠のツナガリ、たとえば組織に参加することはすでに決めているとしましょう。私たちは多くの場合、組織とのツナガリを前提にしてエンゲージメントを考えるからです。

その上で、私たちは個別の事実を前にして、つながるにしても、どのくらい積極的にそうするかを意思決定することになるのです。もちろん無意識にそうすることが多いでしょう。その結果、心理的なプラス/マイナスの反応が生じるということになります。この一連の流れすべてを、私たちは「(企業などの組織体における)エンゲージメント」と定義するべきでしょう。

そうなると、私たちが知りたくなるのは「ツナガリの評価」です。たとえば企業に話を限るとしても、「人は、何を基準にして意思決定をしているのか」……。それがわかった時、初めて打ち手を考えることができるからです。

このことが本シリーズの次の主題につながります。参考になるのはこの分野の古典中の古典ともいうべき論文です。詳細は紙数上、次回に譲らなければなりませんが、まずはご紹介します。

エンゲージメント概念の最初期の姿との比較

組織論の文脈で「エンゲージメント」という概念が最初に登場したのはいつでしょうか?……学界に限ると、1990年に発表された、ボストン大学のウィリアム・カーン(William Kahn)博士の”Psychological conditions of personal engagement and disengagement at work”(「職場での個人のエンゲージメントと非エンゲージメントの心理学的条件」)という論文が最初のものとして挙げられることが多いようです。事実上、最初の本格的論考と考えてよいでしょう。

ここでのエンゲージメント(カーン博士はpersonal engagementという呼び方をされています)の定義はやや難しいもので、多少言葉を補いながら箇条書きも交えて直訳しますと:

「パーソナル・エンゲージメントとは、仕事や他の人たちとのツナガリを強化するタスクにおいて、ある個人が

  • より好ましい自己(preferred self)、
  • 自分の肉体的、認知的、感情的プレゼンス(存在感)、
  • その役割における能動的で十全なパフォーマンス

を発揮(「発揮」にはemploymentつまり『使役』という言葉が使われています)し、また、それを(誰かに向かって)表現(expression)することである」

さらに、こうした「発揮」や「表現」の対象となっている要素を、カーン博士はまた「より好ましい次元(preferred dimensions)」と呼び換えることもあります。当然disengagementは、こうした次元を発揮も表現もできない状態ということになります。

カーン氏は、この諸次元が発揮・表現できた時、人はその役割とタスクとの関係をいっそう強いものにするというのです。この辺りに、最初にお話しした「自己拘束」との関わりがあるのは明らかです。

カーン博士の用語は現在の主流となっているそれとは異なるものも多く、「より好ましい自己」など、そのままでは測定しにくい概念も顔を出します。また、特にビジネス・サイドで用いられるエンゲージメント概念はその後、用途を広げられたこともあり、さらに多様な概念を包摂するものとなっていますが、エンゲージメントという言葉の本来の意味を考えれば、氏の考察には参考にするべきものが多いと思われます。

まとめ:エンゲージメントを説明する大まかな絵を描くと?

ここまでの議論をまとめてみます(もちろんビジネス組織におけるエンゲージメントに話を絞ります)。

まず、エンゲージメントの前提として、その状況に身を置くことで(物理的に、だけではなく抽象的/精神的に)仕事や役割、人との「ツナガリ」が生まれる、そしてそれがその人の自由を一定程度「制約する」、そんな「場」があるということが重要です。

その場に自分を「埋め込む」かどうか、その「意思決定」が次なるポイントです。必要なのはそうするかどうかを、自分のWillに基づいて判断することです。つながろうという意欲が高いほど、いわゆる「エンゲージメント」も高い状態だと考えてよいでしょう。

焦点は、その「ツナガリの評価」の基準です。働く人たちは、何を基にして「ツナガリ」を評価しているのでしょうか? ここで手がかりになるのが、エンゲージメント論の古典中の古典である上記のカーン博士の論文でしょう。というのは、氏の研究のベースに「ツナガリ」の発想があり、しかも、その後の研究の萌芽と思われる要素が、ほとんど含まれているからです。

そんなわけで次回は、今回の考察をベースに、引き続き上記のウィリアム・カーン博士の論文も参照しつつ「エンゲージメントの理論モデル」について考えていきたいと思います。