前回までの2回で、イノベーションに求められる「発想作り」にはいろいろなタイプ(本稿では4種類に分類しました)があり得ること、「自分たちなりのやり方」で取りかかって良いのだ、ということを見てきました。理由は:
普通の人の、普通の人による、普通の人のためのイノベーションとは?
を考えたかったからです。
今回は、近い将来のイノベーションがどのように変化していくのか、そして、人間の能力はイノベーションをどのように活かすことができるのか、を考えていきたいと思います。それによって、これからの時代の「スタイル」の活かし方も変化すると考えられるからです。
これからのイノベーションはビッグデータと機械学習を無視できない
今後のテクノロジーの進化を占うにあたって、特にビジネス分野で鍵になるのは、やはり5G(第五世代移動通信システム)の導入でしょう。
主題ではないのでここでは詳しく論じませんが、ポイントは、「5Gが当たり前」の世界では、さまざまな対象についての、莫大な量のデータが日々収集・蓄積され分析されるようになる、ということです。
その量は(少なくとも国際電気連合が定めた5Gの定義に従えば)、現代の4G水準のそれとは比べ物にならないほど大きなものです。また、集まる情報の細かさも、消費動向のような大まかなものではなく、たとえば消費者の一挙手一投足の情報のような、詳細で精緻なものになると考えられています。[1]
そうなると、現在の機械学習や人工知能ブームは、いわば序章に過ぎないものになります。機械学習の死命を制するのはアルゴリズム、そしてデータの量と精度ですが、後者が圧倒的なものになることで実験の選択肢が広がり、アルゴリズムの研究も急速に進むことになるのは間違いありません。
何より、機械学習システムが使えるデータの量と質が膨大になることによって、システムが下す判断や予測の精度が飛躍的に高まるだろうと予想されています。たとえば、現在は限られた数の専門家が予測している「服装の流行」ですが、近い将来、ビッグデータを活用した「機械による予測」に取って代わられるのではないか、と言われます[2]し、それもピンポイントの予測が可能になりそうな状況です。同様の動きは、市場予測全般に広がるでしょう。
こうした中では、企業のイノベーションの多くも、ビッグデータが語る顧客や市場の動向を無視して起こすことができなくなるでしょう。マーケティングの様相が変わるのです。
市場予測だけではありません。「創り出す」側においてもビッグデータや機械学習を使った方法論が効力を発揮し始めています。そして、おそらく5Gの技術のもとに集められた社会データは、経済、社会、文化のあらゆる側面で、解析とシミュレーションに用いられ、公共部門の政策決定はもちろん、企業活動、特に戦略企画の決定にも大きな影響を与えることになるでしょう。そのことは、今回のコロナウイルス禍で用いられた、スマートフォンを介した接触情報分析の効果からも、十分に予測できることと言えます。
人間にできて、現在の機械学習にできないこと
このように、ビッグデータを基にした新しいイノベーションの実例が次々と生まれるのを見ると、人間によるイノベーションとは何なのか、今後ますます人間の創造性の役割はなくなるのではないか、と思う方もおられるでしょう。
ところが、必ずしもそうとは言えません。今のところ、たとえ深層学習でも、データから得られた知見から仮説を作って検証し、結論に結びつける能力がないからです。事実、人工知能のアルゴリズムの一つであるベイジアン・ネットワークの考案者で因果分析の世界的権威であるJudea Pearl(ジューディア・パール)氏や[3]、深層学習のグルと呼ばれるJoshua Bengio(ヨシュア・ベンジオ)氏[4]のような人たちが、現在の人工知能、特に深層学習には因果関係を推定する能力、つまり「なぜ」に対して答える能力は備えておらず、これを実現するのが次の人工知能研究の中心課題だ、とインタビューに答えています。
期せずして一致している2人の権威の発言は「現在の機械学習には、自律的に『仮説や理論を構築する能力』は、まだない」と解釈できるでしょう。逆に言うと、ここにはまだ人間に残された領野があると言えます。
むろん、機械にできなくて人間にできる領域はまだたくさんありますが、今回はこの仮説や理論の構築と、「これからの時代の人間とイノベーション」について考えていきたいと思います。
アブダクションとイノベーション
仮説や理論を構築するには推論(reasoning)が必要です。
人間の推論には、大まかに分類すると3種類あります。これを英語ではDeduction(デダクション:演繹), Induction(インダクション:帰納), Abduction(アブダクション:定訳なし)と呼びならわすのが一般的です。
「演繹(デダクション)」は、公理や前提から決まったルールに従って結論を引き出すもので、三段論法などがその典型です。「帰納(インダクション)」は、個別的なデータから物理法則などの一般的法則を導き出す推論のことで、当然、ある程度の「一般化のための飛躍」が必要ですが、それでも厳然としたルールやアルゴリズムがあって、原則として、十分な量と範囲のデータが集まらない限り、うまく働かないのが常です。
3番目の「アブダクション」は以前から心理学で「ヒューリスティクス」や「仮説思考」と呼ばれているものに、ほぼ該当します。先の2つとは異なり、不完全な情報や証拠しか手元にない場合でも、とりあえずの仮説を立てたり理論やモデルを構築したりする推論の方法です。多くの場合、さらなる行動や実験で確認したり、その行動から得られた事実を基に前の仮説を練り上げたり、別の新たな仮説を立てたりすることが多くなるでしょう。
アブダクション[5]という推論形式の存在は、古典ギリシア時代から指摘されていましたが、これを演繹や帰納と並ぶ推論の方法として位置付けたのは、哲学者Charles Sanders Peirce(チャールズ・サンダース・パース)[6]です。
人工知能研究の流れの中で、デダクション(演繹)とインダクション(帰納)は、その草創期から研究が積み重ねられ、特に演繹は、実用面でもエキスパート・システムや数学の定理の自動証明システム(Coqなど)に幅広く使われていますが、アブダクションだけは、さらなる研究が待たれる、というところです。
そもそも人間がどのようにアブダクションを行っているのか、そして失敗も少なくないものの成功することもあるのはなぜかといった、アブダクションの心理メカニズム自体が、長年の実験や研究で明らかになったことも多いとは言え、人工知能にアルゴリズムとして組み込めるほど「わかっている」とは言えないのが実情です。
他方で、科学的発見のみならず、実業における発明やデザイン、イノベーションにおいて、アブダクション的な思考パターンが随所でポイントになっている事実が、最近の専門的な論文で頻繁に指摘されるようになっており、研究のさらなる進展が望まれています。おそらく上記の「なぜ?」に答える因果推論などにも、このアブダクションが深く関わっているでしょう。
いずれにしても、「なぜ」を考えて仮説を構築していく……これがイノベーションのすべてではないにしろ、特に科学やテクノロジー分野のイノベーションにおいて、重要な鍵を握っているのは確かなようです。
次回の課題:イノベーション・スタイルは仮説思考的な推論とどう関わるのか?
アブダクションの研究が教えてくれるのは、人間の推論には現在の人工知能には未踏の、そしてしばらくは実現できないと思われる謎が含まれており、しかもそれがイノベーションの鍵を握っている可能性が高いという事実です。したがって5Gの時代においても、少なくともしばらくの間は、人間がイノベーションの主役クラスを降りる必要はなく、むしろしばらくは、人工知能との「二枚看板」を張る時代が続くと予測しても良さそうです。
とはいえ、人間が、その本来持っているイノベーティブな能力を使おうとしなければ、機械に振り回されるだけになり、二枚看板どころではありません。そこで次回は、シリーズ最終回のまとめとして、ここで述べたアブダクション的な思考過程と、前回ご説明したイノベーションの「スタイル」との関係について考え、本シリーズのまとめにしたいと思います。
- [1] このため、ジェレミー・ベンサムが監獄のモデルとして考案し、のちにミシェル・フーコーがそれを監視社会のモデルとして自説に応用した「パノプティコン」が現実のものになるのでは、という議論が活発に行われています。
- [2] Leanne Luce (2018) Artificial Intelligence for Fashion: How AI is Revolutionizing the Fashion Industry (Apress)
- [3] https://www.quantamagazine.org/to-build-truly-intelligent-machines-teach-them-cause-and-effect-20180515/
- [4] https://wired.jp/2020/02/27/ai-pioneer-algorithms-understand-why/
- [5] アブダクションには「拉致」という好ましくない意味もあります。ちなみに「宇宙人に連れ去られた」という噂が、アメリカでときおり流れることがありますが、この「宇宙人に連れ去られること」もアブダクションと言います。
- [6] パース(1839-1914)はプラグマティズムという哲学の流れの始祖とされ、記号論、数学、論理学、科学哲学から測量学、宇宙論まで、幅広い業績を遺しています。現在でこそアメリカの生んだ最大の哲学者の一人と呼ばれるパースですが、生前はほとんど学会に認められず、晩年は極寒の冬に暖も取れず、食べるものも食べられないほどの極貧の中で亡くなりました。膨大な遺稿はほとんどが未発表で、現在少しずつ整理・出版されつつある途中です。